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鉄道・バイクで旅をしたことが主な記事です。 いつかは、亜細亜(M党の政治屋が、大好きな特亜3国を除く)を回りたいです。 航空機だけは、なるべく使いたくありません。
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今日は晴天。
最近、自分の勤務中に異例時が多い。
鹿児島の先達場所に行ってないからかな?

とりあえず、鹿児島との繋がりの深い岐阜県の神社に行こう。

名阪国道と東名阪自動車道を走り継ぎ、後は一般道。



そして治水神社。
神社には「愛知鹿児島県人会」が数本立っていて、賑やかな雰囲気だった。
IMG_1087.JPG

何時も通りに参拝して御守りと御神籤を戴いてから去ろうと思ったら、宮司さんが居たので挨拶をし、少し話しをしてから去った。



次に向かう場所は、関ヶ原。
IMG_1081.JPG

島津軍が少数の兵で参戦し、その少数の兵で徳川家康本陣をかすめて、本多隊・井伊隊を「すてがまり」で撃退し、兵を減らしながら撤退した。

それ(死んでいった兵士達)にあやかりたいと思い、島津軍陣地跡のベンチで湯を沸かして、カップ麺と握り飯を食して、日頃飲まない珈琲を飲もうと思った。



しかし、工事中。


此処で湯を沸かして、昼飯を食べるつもりだったが残念。

412年前の薩摩武士達が前進退却で戦い、島津義弘公を薩摩に帰した場所だ。 かも殆どの薩摩武士が、国抜け(同然)で参陣して、約1500人居たのが約80人まで減らし、しかも豊後沖では黒田勢と戦い殿様を帰国させたのだ。どれだけ島津義弘公は、薩摩武士達と本当に心が通い合っていたのだろうなと思った。



次は烏頭坂

島津義弘の甥、「豊久」が奮戦し討たれた場所と聞く。
一族なのに「すてがまり」となってまで戦い抜いた。槍で七度突き上げられ戦死。
いろんな説があり、墓は上石津町の瑠璃光寺にもある。




次は牧田町の光琳寺

長寿院(阿多)盛淳が島津義弘の陣羽織を着て、影武者となって奮戦して戦死した場所付近。墓は、琳光寺にある。
奮戦の碑は、近くの建物の陰にある。といっても牧田川がよく見える場所にある。




殿様が去っていく姿を見て、部下と生き残りの帖佐衆と供に、追撃してくる徳川勢に突撃したんだろうなぁ。






カメラと一緒にデータ紛失したため、やる気無しです。(画像は過去写真から)


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しかし、特亜には絶対に行きたくないですね。
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